TOKYO2020 MY LEGACY #06:車椅子エンジニア 小澤徹さん(株式会社オーエックスエンジニアリング)
TOKYO2020 MY LEGACY #06:車椅子エンジニア 小澤徹さん(株式会社オーエックスエンジニアリング)
今回のMY LEGACYは、株式会社オーエックスエンジニアリング(千葉県千葉市)でレーサーと呼ばれる3輪の陸上競技用車いすの開発・製造・販売に携わるエンジニアの小澤徹さん。
小澤さんがこれまでに作られた陸上競技用車椅子の数は1,200台以上。国内だけでなく海外の一流アスリートも小澤さんが製造された陸上競技用車椅子を使用しています。
今回は、#01でインタビューをさせていただいた花岡伸和さんからのご紹介で、株式会社オーエックスエンジニアリングさんのご厚意により小澤さんにお話を伺う機会をいただきました。
本インタビューでは、エンジニアという立場でパラアスリートの競技生活を支える小澤さんのお仕事に対する心得や想い…そして、MY LEGACYを伺いました。
車椅子エンジニアになったきっかけは長野パラリンピック
1998年の夏に、現在所属している株式会社オーエックスエンジニアリングに中途で入社しました。
入社のきっかけは、その年に開催された長野パラリンピックのアイススレッジスピードレースという競技をテレビで見て、その部品を作っていたのが今の会社と知り、興味を持ったからです。
それから今日まで15年以上、車椅子エンジニアとしてパラアスリートの陸上競技用車椅子を作ってきました。
私が、陸上競技用の車椅子作りに長年携わっている理由は、主に2つです。1つは、担当者が変わると過去にどういった車椅子を作っていたか把握しきれなくなることがあるので、そうならないようにするため。もう1つは、担当者が同じだと選手とのコミュニケーションがスムーズにできるからという点があります。
そのため担当する選手の中には、東京パラリンピック日本代表に内定している鈴木朋樹選手のように、子供時代から数十年来の付き合いという選手もいます。
またスイスのマルセル・フグ選手をはじめ、海外パラアスリートの陸上競技用車椅子もオーエックスエンジニアリングで作っています。
車椅子エンジニアは未経験からのスタート
入社するまでは、全くと言っていいほど車椅子陸上という競技について知りませんでした。
そもそも車椅子についての知識もありませんでしたので、最初の頃は手探り状態だったことを覚えています。
入社して最初の1年ほどは、組み立てやフレーム部品の加工の仕事をしていました。今思えば当時の上司も私の適性を見ていたのだと思います。
陸上競技用の車椅子に本格的に携わるようになったのは、2000年シドニーパラリンピックの前でした。
大会前に、選手が乗るための車椅子を作る”サポート選手”というシステムが社内にあるのですが、その生産が忙しくなり、上司に手伝って欲しいと言われたのがきっかけでした。
車椅子を作る上で大切なのは”選手とのコミュニケーション”
私が車椅子エンジニアとして、心がけていることは”選手がどう使いたいかを一緒に考える”ということです。
新しい車椅子を作る時、選手は”直進安定性を保たせたい” ”空気抵抗を減らしたい”といった要望を持っています。
その選手の要望をしっかり聞きながら”選手が納得してくれるものを作る”ことを大事にしています。
それに加えて、選手には障害があります。各選手がどこまで感覚があるのか自分には分かりません。それをしっかり把握する必要があります。
「これは痛い?」「そこ感覚ないから分からないよ」といったような具合に、選手と会話をしながらどこまで体を動かせるのかを聞いて作っていきます。
小澤さんが作るのは”次の目標を達成する車椅子”
私の仕事は、選手の目標を達成する車椅子を作ることです。
その目標というのは、”世界選手権に勝つため”だったり”代表の選考に選ばれるため”だったりと選手によって異なります。
代表の選考が終われば、次はパラリンピックに勝つため…といった具合に目標もその都度変わっていきます。
”選手が次は何を目標にしているのか”を常に気にしながら、仕事に取り組んでいます。
「職人になるなよ」先代社長からの言葉
私は、もともと人と話すのが得意ではなく、職人になりたいという気持ちで入社をしました。
しかし入社後、先代の社長から言われた言葉は「職人になるなよ」でした。
職人になりたくてこの仕事を選んだのに、何を言っているのだろうと最初は思いました。
ただ実際に仕事を続けていく中で、この仕事は、作る側と使う側との対話がないと出来ない。自分本位のものを作るだけでは、選手は納得してくれないということに気がつきました。
職人が好きな物を作って押し付つけるのではなく、選手と対話をして選手に合ったものを作りなさい。
先代の社長は、私にそれを伝えたかったのだと思います。
大会期間中 選手を見守る小澤さんの想い
車椅子エンジニアとして、初めて会場に足を運んだ大会が北京パラリンピックでした。
本大会では、会社の車椅子を使ってくれていた伊藤智也選手が金メダルを取ったのですが、その姿をスタンドから見ていて嬉しかったことを覚えています。
また海外の選手が車椅子を実際に使っている姿を見ることが出来るのは大会だけなので、その姿を見ると嬉しい気持ちになります。
ただ大会期間中、私はメカニックとして参加をしていますので「壊れないでほしい」という気持ちがなによりも強いです。
選手が転倒したりトラブルがあったりして、ベストな状態で競技に出られないとなると大きな責任があります。
だから、私たちが作った車椅子を使ってくれている全選手の競技が終わるまでは、心からは喜べません。
ゴールテープを切るまで車椅子が安全であってほしい…そんな想いで会場から選手を見つめています。
TOKYO2020の後に世の中に残ってほしいLEGACY
選手のことを考えると、選手をサポートする体制が大会終了後も継続してほしいと思います。
東京大会が決まる前までは、選手が自腹で大会に遠征するなどサポート体制がしっかりしたものではありませんでした。
今では強化費が出て、選手が安心して大会に参加できるようになってきたので、この体制が続いてほしいですね。
また最近は、育成面にも力を入れられるようになってきたので、選手を発掘して育てていくというサポートも合わせて続いてほしいと思います。
TOKYO2020大会をきっかけに子供たちの目標になってほしい
毎年12月に”日産カップ”という小さい子からトップアスリートまでが参加できる記録会があります。
この大会では、協賛品としてレーサーを会社が出しています。過去には、鈴木朋樹選手もレーサーを獲得しました。
今でもこの取り組みは続けていますが、年に1台または2台という規模なので、こういう取り組みがもっと大きい規模で出来るような状態になればいいなと思います。
そのためには「パラリンピックに出たい!」という夢を持つ子供たちや、それを応援する人たちが今よりももっと増えていって欲しいですね。
そうなるよう、ぜひTOKYO2020の会場で実際に本物のパラリンピックの競技を見てもらいたいです。
TOKYO2020 に残したい MY LEGACY
TOKYO2020がきっかけとなり、モノ作りの方法が急激に変わってきていることをエンジニアとして感じています。
例えば、今まで2次元の図面で車椅子を作っていたものが3次元の図面を使って立体的に見えるように作れ、今まで試作に時間がかかったものが3Dプリンターで手早く作れるようになりました。
また車椅子の作り方自体も、アルミのパイプを使っていたものが、それよりも軽い金属で作れるようになるなど、様々な組み合わせで車椅子を作ることができるようになりました。
TOKYO2020によって進んだ”イノベーションの技術”。これを未来にうまく残していきたいです。
他にも、今回のTOKYO2020をきっかけに大学や企業さんと一緒にモノ作りに取り組むといった新しいチャレンジをするようになりました。
この新しい関係性というのも合わせて大事にしていきたいです。
小澤さんのこれからの目標
LEGACYを残していくためには”自分の技術を次に伝えていく必要がある”と感じています。
これまで自分が培ってきたものを、次に伝えていくこと。これは技術面だけではありません。
陸上競技用車椅子は、作る側と使う側との対話がなければ作れません。自分本位で作ったものは、選手は納得してくれません。
「職人になるなよ」
私が先代の社長から学んだ”モノ作りに対する考え方”も次の人たちへ伝えていかなければいけないと思っています。
2020.10.14 インタビュー記事・イラスト制作:タナカ